本文摘自日本小说家太宰治创作的中篇小说《人间失格》。
朗读者:由依老师
こうこは、どうこの細道(ほそみち)じゃ?
这条小径究竟通往何处?
哀(あわ)れな童女(どうじょ)の歌声(うたごえ)が、幻聴(げんちょう)のように、かすかに遠(とお)くから聞(きこ)えます。
从远方传来微弱的少女歌声,凄婉动人,如同幻听一般。
不幸(ふこう)。この世(よ)には、さまざまの不幸(ふこう)な人が、いや、不幸な人(ひと)ばかり、と言(い)っても過言(かごん)ではないでしょうが、
不幸,这世上有各种不幸的人。不,说这世上全都是不幸的人也不为过。
しかし、その人たちの不幸は、所謂世間(いわゆるせけん)に対(たい)して堂々(どうどう)と抗議(こうぎ)が出来(でき)、また「世間」(せけん)もその人たちの抗議を容易(ようい)に理解(りかい)し同情(どうじょう)します。
不过,那些人的不幸可以堂堂正正地向所谓的“世间”提出抗议,“世间”也很容易理解并且同情他们的抗议。
しかし、自分(じぶん)の不幸は、すべて自分の罪悪(ざいあく)からなので、誰(だれ)にも抗議の仕様(しよう)が無(な)いし、また口(くち)ごもりながら一言(ひとこと)でも抗議めいた事(こと)を言いかけると、
但是我的不幸全都来源于自己犯下的罪恶,我无法向任何人提出抗议。即便我含糊不清地表达一句抗议的意味,
ヒラメならずとも世間(せけん)の人たち全部(ぜんぶ)、よくもまあそんな口がきけたものだと呆(あき)れかえるに違(ちが)いないし、自分はいったい俗(ぞく)にいう「わがままもの」なのか、
那么,即使不是“比目鱼”,这世上所有的人无疑都会惊讶于我的言论。我究竟是如俗语所说的“任性之人”,
またはその反対(はんたい)に、気(き)が弱(よわ)すぎるのか、自分でもわけがわからないけれども、
还是与此相反,过于胆怯、畏首畏尾之人,连我自己都无从得知。
とにかく罪悪のかたまりらしいので、どこまでも自(おのず)からどんどん不幸になるばかりで、防(ふせ)ぎ止(と)める具体策(ぐたいさく)など無いのです。
总之,我似乎是罪恶的集合体,自始至终都是自己主动一步步走向不幸的,却无任何具体的防御之策。